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聴いてみようLet's Listen

皆さんはどんな曲が好きで、普段どんな音楽を聴いていますか?クラシック音楽も時代により様々です。勿論クラシックだけではなく、 色々なジャンルの曲を沢山沢山聴いて、音楽をより楽しんで下さい。

バロックLet's Listen!

短調・長調のしくみが確立され多声音楽が作られ和声音楽も起こりました。オペラ・オラトリオなどの劇音楽も生まれ器楽も発達しフーガや組曲が作られました。この頃、ピアノが始めて製造されます。(音域は4オクターブ位)

sweelinck.mp3
ヤン・ピーテルスゾーン・スヴェーリンク・(1562〜1621)・オランダ・ルネサンス音楽の末期からバロック音楽の最初期。彼の名声はヨーロッパ北部にまで及び、北ドイツ・オルガン音楽の基礎を固めたシャイト、シャイデマンらの多数の優れた弟子が輩出した。それ故「ドイツのオルガン奏者の養成者」の異名を持つほどである。スヴェーリンクはフランドル楽派の最後を飾る作曲家であり、作曲技法的にもジャンルのうえでも基本的にフランドル楽派の伝統を守っている。作品の中心は声楽曲であるが、音楽史的にはむしろ器楽曲の方が重要で、約70曲とされる鍵盤楽器のための音楽はフランドル楽派の書法を基本としてはいるが、バロック時代の器楽曲の出発点としての意味を持っている。涙のパヴァーヌ SwWV.328

schutz
ハインリヒ・シュッツ・(1585〜1672)・ドイツ・13歳の時にカッセルの宮廷礼拝堂楽団の合唱児童になり、貴族学校で学び語学でも抜群の成績をおさめ、同時代に作曲の才も示しました。シュッツ研究家のエッゲブレヒトは、シュッツの作風を要約してドイツ的、プロテスタント的、人文主義的という3つの標語を当てはめています。ときにはラテン語のテキストによって作曲したが彼の創作の柱となったのは、ルター訳のドイツ語聖書であり、その意味深い音楽的解釈は余人の及ばぬ高みに立っています。マタイ受難曲SWV.479 No.13~29 最後の晩餐

Lully
ジャン・バティスト・リュリ・(1632〜1687)・イタリア・若くしてイタリアに渡り「国王陛下の室内楽団総監督」としてフランス音楽界で指導的な役割を果たし、特にフランス・オペラの確立者として重要。「宮廷バレー」は、まだオペラの定着していない当時のフランス宮廷にはなくてはならないもので、ルイ14世はことのほか踊を好み、1669年まで自ら宮廷バレーに出演し、リュリも踊手として成功、とくにその喜劇的なセンスが評価され国王の恩寵を得ました。宮廷バレーは当時器楽と声楽を別名の人物が作曲するのが常でしたが、リュリは一人で作るようになり、その功績を買われ宮廷バレー作曲家の第一人者となりました。その後のリュリのオペラは宮廷バレーからその空想的できらびやかな舞台効果を継承する一方、音楽面では多様性よりも単一性、技巧よりも自然、誇張よりも中庸を重んじています。Courante・ホ短調

Pachelbel
ヨハン・パッヘルベル・(1653〜1706)・ドイツ・1669年アルトドルフの大学在学中、聖ローレンツ教会のオルガン奏者を務めて以降、ウィーンの聖シュテファン大聖堂次席オルガン奏者、アイゼナハの宮廷オルガン奏者、エルフルトの伝道者教会やシュトゥットガルトの宮廷オルガン奏者、マルガレーテ教会、ニュルンベルクの聖ゼーバルト教会など、当時最もすぐれたオルガン奏者の一人として知られていた。70曲近くのコラール編曲、フーガやトッカータ等の鍵盤曲の他、パッヘルベルのカノンは彼の作品の中で最も有名な作品として知られている。3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調

torelli
ジュゼッペ・トレッリ・(1658〜1709)・イタリア・作曲家、ヴァイオリン奏者。23歳を過ぎてからボローニャにて音楽を学ぶ。聖ペトローニオのヴィオラ奏者として活動、その後ウィーンへ渡り同大聖堂の楽団の再建を機にボローニャへ戻りこの地にとどまる。聖ペトローニオ大聖堂は質量ともに異なる音群のあいだの対照をきわ立たせることが好まれていた。常備の楽団の人数は10~15人であったが祝典の際などは120人にものぼる大編成のオーケストラが用いられたりした。彼の音楽は伝統に裏付けられた楽器の名人芸的な用法や色彩的な用法に優れ、みずみずしい生気にあふれているが憂愁の影の濃い表現も多く特に緩徐楽章では、憂愁を通り越しやりきれないほどの憂うつな気分に浸されることも多い。Concerto grosso in G minor, Op.8, No.6 "Christmas Concerto"

albinoni
トマゾ・アルビノーニ・(1671〜1751)・イタリア・作曲家、ヴァイオリン奏者。オペラやカンタータ等声楽系統に関しては不明な点が多いが、18世紀前半の器楽の発展の歴史の中では彼の名は重要。1722年頃からアムステルダムのル・セーヌから出版した5声のコンツェルト集に至るまで、様々な器楽曲を出版しており、バッハも関心を寄せていました。イタリアの音楽学者でアルビノーニ研究の第一人者だった「レモ・ジャゾット」は第二次世界大戦で焼けたアルビノーニの作品の断片を旧ザクセン国立図書館で見つけ、編曲・復元したのが「アルビノーニのアダージョ」しかしこれは現在では完全なジャゾットの創作品だと判明されています。アルビノーニのアダージョ

vivalde
アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ・(1678〜1741)・イタリア・ジョヴァンニ・バッティスタ(Giovanni-Battista)の長男として生まれます。父は聖マルコ大聖堂のオーケストラのヴァイオリン奏者であります。楽才に恵まれた息子ヴィヴァルディは、10才で聖マルコ大聖堂のオーケストラに 見習いとして採用された程の作曲家です。彼の作品は後に J.S.バッハに強い影響を与える事となります。ヴァイオリン協奏曲第6番イ短調《調和の霊感》1楽章アレグロ

telemann
ゲオルク・フィリップ・テレマン・(1681〜1767)・ドイツ・当時バッハをしのいで、ヘンデルに迫る名声をほしいままにし、また多作の作曲家として有名。その作品数はバッハ、ヘンデルを合わせた数より多い。これらの膨大な作品の中には、やや霊感に欠ける作品もあるが、ドイツ的な声部書法の緻密さ、フランス的な機知と洗練、イタリア的旋律の優美さ、ポーランド風の野趣を合わせた作風はつねに明るく、熟達した筆致と快い意外性に満ちている。また、時代に先んじた和声感覚と種々の楽器の個性的・色彩的な用法にもみるべきものが多い。今日、彼の音楽史上の地位は再評価されつつあり、モーザーは彼を評して、和声的な響きの魅力、人をひきつける力、独創的な型式感において「後期バロックおよびロココのリヒャルト・シュトラウス」とよんでいる。ヴィオラ協奏曲ト長調 TWV51,G9:I.Largo

vivalde
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ・(1685-1750)・ドイツ・宮廷の楽師Johann Ambrosius(ヨハン・アンブ・ジウス)とMaria Elisabeth(マリア・エリザベト)の間に生まれたJ.S.バッハは父からヴァイオリンのてほどきを受け、伯父Johann Christoph(ヨハン・クリストフ)のオルガンを耳にしながら育って行きました。1694年(9才)で母を、翌年に父を失ったバッハは兄の元に引き取らせれ、この兄からオルガンとクラヴィアを教えてもらう事となります。バッハの晩年に特有の高度な対位法技術の集大成という傾向は<フーガの技法>(BWV1080)で頂点に達します。ヴァイオリン協奏曲第2番・ロ短調BWV1067より

handel
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル・(1685-1759)・ドイツ→イギリス・父はヘンデルが音楽を志す事に反対でありました。しかし8才の時ヴァイセンフェルス宮廷でアウグス公爵に才能を認められハレの聖マリア教会のオルガン奏者であったツァハウの元で音楽を学ぶ事となります。1702年(16才)にヘンデルはハレ大学に入学します。約一ケ月の後、ハレの大聖堂の見習いオルガン奏者となります。オラトリオ《メサイヤ》HWV56「Hallelujah!」(ハレルヤ)

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古典派Let's Listen!

和声音楽が主流となります。交響曲、ソナタ、室内楽、協奏曲など、ソナタ形式をもとにした楽曲が多く作られました。

gluck
クリストフ・ヴィリバルト・グルック・(1714-1787)・オーストリア・ドイツに生れ、チェコで育ち、ウィーンとパリで活躍したオペラ作曲歌。グルックの青少年時代を通じて、だれにどのように音楽を学んだかはほとんど不明であるが、彼の音楽的教養をつちかつたものは、当時優秀な音楽家を輩出したボヘミヤの民衆の音楽的水準の高さにほかならなかったのではないでしょうか。グルックは芸術の美の基礎を「単純,真実,自然」「La semplicita,La verita e La naturalezza」と定義しています。精霊の踊り

haydn
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン・(1738-1809)・オーストラリア・オーストリアの18世紀後半の著名な作曲家。ウィーン古典派の様式確立に最も大きく貢献した一人で、特に交響曲と弦楽四重奏曲の様式発展の中心を形づくりました。ハイドンの作曲様式の時代的区分は種々試みられてきましたが、ライセルは次の7時期に区分しています。1・ウイーン時代 (1750年代〜1761年ころ)2・アイゼンシュタット時代 (1761年〜1766年)3・エステルハーゲ時代,拡大の時期 (1766年〜1775年ころ)4・エステルハーゲ時代,オペラ活動期 (1775年ころ〜1784年)5・外国からの依頼 (1785年〜1790年)6・ロンドン時代 (1791年〜1795年)7・ウィーンの晩年時代 (1795年〜1809年) 交響曲第94番ト長調第3楽章

boccherini
ルイジ・ボッケリーニ・(1743-1805)・イタリア・チェロ奏者、古典時代におけるラテン系器楽の代表的な作曲家。チェロあるいはコントラバス奏者の父に音楽の手ほどきを受けたのち、13歳でチェロ奏者としてデビュー。14歳の年にローマに留学、やがて父とともにウィーンの宮廷劇場で演奏活動を始め、作曲家としてもしだいに認められる。作品は弦楽五重奏曲と弦楽四重奏曲などの室内楽曲と、チェロ協奏曲、交響曲などの管弦楽曲が中心。イタリアの器楽の伝統から出発した彼は、活躍の舞台となったフランスとスペインの当時の音楽趣味に適合したスタイルを生み出していく。優雅な旋律と巧妙なディナーミク、そしてチェロを中心とした鮮やかな技巧が特色。弦楽五重奏曲 作品11-5 G.275 第三楽章 イ長調

salieri
アントニオ・サリエリ・(1750-1825)・イタリア ・裕福な商人の家に生まれ、生地で兄からヴァイオリンとハープシコード、ヴェネツィアではペシェッティに作曲を学ぶ。1770年のオペラ・ブッファの第一作「女文士」1771年のグルッグの影響を示すオペラ・セリア「アルミーダ」でオペラ作曲家としての名声を確立、1774年ガスマンの後任として宮廷作曲家と宮廷劇場指揮者に任命、作曲家として第一線を退いてからもウィーン楽壇の重鎮として幅広く活躍。弟子にはベートーヴェンやシューベルト、チェルニーなど多数。また、サリエリがモーツァルトを毒殺したという説は伝説。また1830年に作られたプーシキンの劇詩「モーツァルトとサリエリ」はリムスキーコルサコフによって1898年にオペラ化された。 序曲集より「魔よけ」

clementi
ムツィオ・クレメンティ・(1752-1832)・イタリア・幼少より豊かな音楽教育を受け、1766年イギリス人ベックフォードに伴われてイギリスに渡り、ピアノ・作曲を学ぶ。1773年ロンドンでピアノ・ソナタを出版以後作曲家として活躍。ロンドンではイタリア・オペラを指揮し、ヨーロッパ各地も演奏旅行、人気を集めウィーンではモーツァルトと競演した。1798年以降は楽譜出版とピアノ製造会社も経営。1802年にはベートーヴェンと親交を結ぶ。100曲の練習曲からなる「Gradus ad Parnassum」はピアノ教則本として今日でも実用価値を持っています。ソナチネ 作品36 第1番 ハ長調 I.Allegro

mozart
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト・(1756-1791)・オーストリア・モーツァルトは1756年オーストリアのザルツブルクに生れ、宮廷管弦楽団のヴァイオリンニストをしていた父、レオポルドに幼少よりピアノを習い父や姉と三人で演奏旅行をし、自作の曲を演奏するなど、豊かな才能を現わし、神童と呼ばれていました。その後イタリア、フランスを旅行しハイドンら 当時の有名な音楽家たちに多く接し、さまざまな様式を学び、数多くの曲を残しています。アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク1楽章

beethoven
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン・(1770-1827)・ドイツ・フランス大革命,イギリス産業革命などの嵐が全ヨーロッパに吹き荒れる18世紀の終り1770年ドイツのボンに生れました。お酒呑みの父に叱られながら4才のころより教えこまれながら彼の音楽への苦しい一生が始まりました。しかし元来負けず嫌いなベート??ヴェンは常に自力で音楽に精進し17才の時ウィーンに出てそのころすでに偉大なる音楽家モーツァルトを訪ね其処で彼がモーツァルトに自作の曲をピアノで演奏しました。その偉大なる旋律はモーツァルトをして「この若者はいまにきっと世を騒がせる音楽家になるだろう」と言わしめました。その後彼はリヒノフスキー大公の保護を受け日毎に名声をはくしましたが25才ごろより耳の病に犯されはじめ32才にして不幸にも彼の両耳は完全に音を聴く事が出来なくなりました。しかし彼は作曲に精進し「月光の曲」その他後世に残る有名な作品を数多く残しました。「運命」交響曲第5番第1楽章・冒頭部

hummel
ヨハン・ネポムク・フンメル・(1778-1837)・ハンガリー・ 幼少から指揮者の父にピアノ、ヴァイオリンの手ほどきを受け、8歳でモーツァルトにピアノを師事、1787年ドレスデンでモーツァルトの指揮によりデビューした。サリエリ、ハイドンに作曲を学び、ベートーヴェンとともに楽都を代表するピアノ奏者に数えられ、ロシア、ポーランドからイギリス、フランスに及ぶ演奏活動により、シューベルトからショパンに至る世代に感銘を与えた。3か国語に翻訳された「ピアノ奏法 Ausfuhrliche theoretisch-praktische Anweisung zum Pianoforte-Spiel 1828」は、シューマン以後の世代の教科書となり、門下にはメンデルスゾーン、ヘンゼルト、タールベルクらが数えられる。また、作曲家としても18世紀の古典主義と19世紀中葉のロマン派様式媒介する位置にあり、その正当な評価は同世代・同門のベートーヴェンを歴史の中に位置付けるうえでも欠かせない。ピアノ協奏曲第2番 作品85 第二楽章「Larghetto」へ長調

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ロマン・国民楽派Let's Listen!

自由な感情の表現を重んじる傾向が強まり、また、民族色の強い音楽が作られました。即興曲、無言歌、ラプソディなどの器楽の小曲や、交響詩などの表題音楽、あるいは芸術歌曲やオペラが盛んに作られました。和音の扱いや管弦楽の音色が多彩になりました。

paganini
ニコロ・パガニーニ・(1782-1840)・イタリア・19世紀の代表的なヴァイオリンの名手。港湾関係の仕事をしていた父アントニオにヴァイオリンのてほどきを受け、 次いで生地の劇場指揮者セルヴェットGiovanni-Servettoと聖ロレンツォ教会の学長コスタGiacomo Costaに師事。11才で最初の公開演奏を行い、1795年にパルマに赴いてロッラに教えを請うが、その演奏を聴いたロッラは、もはやこの少年に教えるべき事は無いと嘆じたという。ロッラの勧めでパエールの師ギレッティGaspare Ghirettiに作曲を学ぶ。その数ヵ月間が彼の生涯で他人に作曲を学んだ唯一の時期であります。ロッシーニのオペラ「モーゼ」の主題による序奏と変奏曲

weber
カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ウェーバー・(1786-1826)ドイツ・ヴェーバーは母に似て虚弱な体質であり、幼少のころ座骨を患ったため、終生彼の足は不自由でした。10才の時、ザルツブルクで M.ハイドンから対位法を学んだ他、ピアノ・楽理声楽の教師について音楽の勉強に励みました。ヴェーバー家はモーツァルト家と縁戚関係にあります。父の兄(歌手)の娘、すなわち少年ヴェーバーのいとこ、コンスタンツェがモーツァルトと結婚したからであります。交響曲第1番・第3楽章「スケルツォとトリオ」

rossini
ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ・(1792-1868)・イタリア・父ジュゼッペ・母アンナのもとにイタリアの郊外で生まれました。ロッシーニは父からホルンの奏法を教えられ、また聖職者ジュゼッペ・マレルビ師から正式な音楽のてほどきを受け、 特に歌唱法を学びました。その他アンジェ・テゼーイ(Angelo Tesei)から歌と和声学を学び、早くから教会で独唱したり、劇場でチェンバロを弾いたり、13才の時にはすでに立派なボーイ・ソプラノ歌手として通 っていました。管楽四重奏の為のソナタ第3番ヘ長調・第3楽章アレグロ

schubert
フランツ・ペーター・シューベルト・(1797-1828)・オーストリア・19世紀の前半のウィーンを代表しベートーヴェンを1つの頂点とするウィーン古典派の最後の大作曲家とみなされ、また同時にシューマンをはじめとするロマン主義に連なる線上にもおかれる作曲家です。その短い、外面的にはきわめて薄幸の生涯のうち1000点にも及ぶ作品を生みだし、モーツァルト以外には 比べられるもののない完成された豊かな天才として 西欧近世の音楽史上不滅の位置を占めています。「歌曲の王」とたたえられ、後世の人々に親しまれる多くの曲を作り出しています。交響曲第5番・D485「Andante con moto」

mendelssohn
ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ・(1809-1847)・ドイツ・父アブラハム、母レーアとの間の4人姉弟の第2子。姉のファニ・ツェツィーリェ(Fanny Cacilie)(1805-1847)はピアノ奏者でありました。メンデルスゾーンはピアノを初歩は母に、のちにはベルガー(Ludwig Berger・1777-1839)にヴァイオリンを、ヘニング(Carl Wilhelm Henning・1784-1867)リ??ツ(Eduard-Rietz・1802-1832)に、作曲を学びました。彼もモーツァルトと同様、時代の生んだ神童の一人であり、9才の時すでにピアノ奏者として公衆の前に立ち作曲も始めていました。ヴァイオリン協奏曲ホ短調 Op.64

chopin
フレデリック・フランソワ・ショパン・(1810-1849)・ポーランド・ショパンは穏やかな家庭環境の中で成長し4才ころから姉や母にピアノの手ほどきを受け、1817年からジヴニー(Wojciech-Zywny・1756-1842)に学びました。ジヴニーは、バッハ・ハイドン・モーツァルトを愛し、幼いショパンに大きな影響を与えました。ショパンの音楽には、マズルカやポロネーズだけでなくワルツやバラードなどにもポーランドの民族的香りが漂い、民族の悲哀や苦悩、喜びや憧れが色濃く込められています。彼はバッハの音楽を敬愛し、モーツァルトの作風を愛し、ベートーヴェンの音構成に注目しました。そしてロッシーニ、フィールド、フンメル、シマノフスカ、パガニーニ、リピニスキ等の名人芸的で華麗な演奏様式や音楽に注目、同時にポーランド各地で聴いた民謡は彼の音楽の骨格となりました。エチュード・嬰ト短調Op.25 N6

schumann
ロベルト・アレクサンダー・シューマン・(1810-1856)・ドイツ・ドイツロマン派の代表的作曲家。母ヨハンナ・クリスティアーネは 優しい家庭的な女性で音楽を愛していました。シューマンの音楽的才能は7才ごろから目立ち始め、ピアノを弾いたり、きれいなボーイ・ソプラノで歌ったり、最初の小さな舞曲などを書いたりして皆を驚かせたりしました。彼の音楽的才能と叙情的な素質は母方から来ている物とみられます。交響曲第3番・変ホ長調作品97「ライン」第1楽章「Lebhaft」

liszt
フランツ・リスト・(1811-1886)・ハンガリー・Franz Liszt(フランツ リスト)ドイツ名。ピアノ奏者、作曲家。父アーダームはギターやヴァイオリンに長じておりまたピアノにも巧みであったとも言われております。息子が7才になるやピアノを教え始めました。 上達は目覚ましく9才の時早くもエーデンブルグや アイゼンシュタット等で公開演奏を行うほどでした。チェルニーにピアノをサリエリに作曲を学ぶ一方シューベルトやベートーヴェンらに紹介される程でした。ファウスト交響曲 第1楽章「ファウスト」

wagner
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー・(1813-1883)・ドイツ・音楽史のほか文学史にも大きな席をもつドイツの代表的な音楽家です。少年時代には音楽家よりも作家を志していました。文学においてはギリシャ劇とシェークスピア劇、音楽においてはヴェーバー・ベートーヴェンから大きな影響を受けました。楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から第1幕への前奏曲

verdi
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ベルディ・(1813-1901)・イタリア・ちいさなスピネット以外にはなにひとつない貧しい音楽的環境に育ったが、ヴェルディは幼いころレロンコーレの司祭から読み書きと算数を学び、教会のオルガン奏者にソルフェージュの初歩を教えられて、やがてこの教会でオルガンの演奏を受け持つようになる。その後、ブッセート音楽学校長兼聖バルトロメオ教会楽長を務めるすぐれた音楽家プロヴェーシ(Ferdinando Provesi)、牧師ピエトロ・セレッティー、そして冨裕な酒造業と物産取引商会の経営者で、自らも熱心な音楽愛好家だったアントニオ・バレッツィの3人によりひときわ熱心な指導と保護を受ける事となる。歌劇「アイーダ」より凱旋行進曲

bruckner
ヨーゼフ・アントン・ブルックナー・(1824〜1896)・オーストリア・父からヴァイオリン、オルガンの手ほどきを受け、10歳の時には父の代理で礼拝でオルガン演奏をしたこともありました。 彼は40歳代終わりから50歳代にかけ、ようやく努力が実を結び音楽的天性が開花したそうです。彼の音楽は超越的であり、ある意味で人間臭さを超え、無限の宇宙の広がりを示しているかのよう、そしてその精神内容の次元の高さは、人間の感情や感覚に直接訴えかけるというのではなく、永遠なるものを志向し、超自然的な陶酔を示しているといえます。交響曲 第9番 ニ短調: 第3楽章: Adagio

smetana
ベドルジハ・スメタナ・(1824-1884)・チェコ・ベドルジス・スメタナはドイツ語を話すビール酒造技師フランティシェクの長男として生まれ、幼児からピアノとヴァイオリンを学び、6才の時すでに土地の上流階級の人々の前でD.F.E.オーペールのオペラ<ポルティチの唖娘>序曲をピアノで演奏しました。1884年5月12日、プラハの精神病院で波乱にとんだ60年の最後を迎えております。連作交響詩「わが祖国」「ボヘミアの森と 草原から」

strauss
ヨハン・シュトラウス2世・(1825-1899)・オーストリア・19世紀にウィーンを中心に実用的な舞踏曲を作曲・演奏した一族で、ウィーン・ワルツの基礎を築き発展させました。父(Johann Baptist・1804-1849)はオーストリアの作曲家・指揮者・ヴァイオリン奏者で250余りの曲を作曲。 ラデッキー行進曲等。子(Johann Strauss・1825-1899)も作曲家・指揮者・ヴァイオリン奏者で500曲以上の作品が残されています。ヨハンは、まだ7才にもならないころ、最初のワルツを作曲したと言われています。父はヨハンが音楽家になる事を反対しましたが、彼の音楽に対する情熱は衰ず、アーモン(Franz Amon)からヴァイオリンの指導を受けていました。作曲をシュテファン大聖堂の楽長を務めたドレクスラーについて学びました。次男のヨーゼフ(Josef・1827-1870)、三男のエドゥアルト(Eduard・1835-1916) も同様に作曲家・指揮者です。トリッチ・トラッチ・ポルカ

foster
スティーブン・コリンズ・フォスター・(1826-1864)・アメリカ・フォスターは早くから音楽的才能を見せますが、正式な音楽教育は受けていませんでした。しかし家族の影響もありギターやクラリネット、フルートも奏でました。ペンシルヴァニア州北東部のアセンズの学校にいた14才の時の、3本のフルートの為のワルツが処女作だと言われています。そして約200曲を作曲し「アメリカ音楽の父」と称されました。My Old Kentucky House

borodin
アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン・(1833-1887)・ロシア・グルジア貴族ゲディアノフ公の庶子として生まれ、父の農奴の子として入籍され、母に育てられました。ピアノ、フルート、チェロを学び、9才でポルカ、13才でフルート協奏曲、弦楽3重奏曲を作曲しました。家庭での合奏ではチェロを演奏しました。歌劇「イーゴリ公」より「だったん人の踊り」

brahms
ヨハネス・ブラームス・(1833-1897)・ドイツ・父ヨハン・ヤーコプは劇場の管弦楽団のコントラバス奏者でした。ヨハネスは3人姉弟で姉はエリザベト・ヴィルヘルミーネ、 弟フリッツはピアノの教師でした。ブラームスは父から音楽の手ほどきを受け、幼児から才能をみせました。父にヴァイオリンとチェロを学び、ピアノをコッセルに又作曲をマルクスセンに学びました。ブラームスはベートーヴェン,シューベルトと共にウィーン中央墓地に葬られています。ハンガリー踊曲・第10番

saintsaens
シャルル・カミーユ・サンサーンス・(1835-1921)・フランス・1作曲家・ピアノ奏者・オルガン奏者サン-サーンスは内務官史の長男として生まれました。生後まもなく父親を失い、母と母の叔母であり養母でもあったマッソン(Charlotte Masson)によって育てられました。すぐれたピアノ奏者であったこの大叔母から2才半の時からピアノのてほどきを受け、5才の時には早くもハイドンやモーツァルトのソナタを弾きこなす程の上達ぶりを示し、また驚くほど敏感な音感をすでに身につけていました。さらに3才半でピアノ曲を作曲しており、その神童ぶりはしばしばモーツァルトのそれと比較される程でした。組曲「動物の謝肉祭」1.序奏とライオンの行進

bizet
ジョルジュ・ビゼー・(1838-1875)・フランス・父のアドルフ・アルマン(Adolphe-Armand・1810-1886)は声楽教師、母は音楽家の家系をひくピアノ奏者で、父の作曲したカンタータや弦楽4重奏曲も残っています。ビゼーは4才で母に文字と同時に音符を教え込まれるなど、早くから音楽に親しみ、 1848年10才になる直前にパリ音楽院に入学。それから約10年間の音楽院在学中にソルフェージュ、フーガ、ピアノ、オルガンでプルミエ・プリを受け、グノー、アレヴィらに師事しました。歌劇「カルメン」第1幕への前奏曲

musorgskii
モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー・(1839-1881)・ロシア・ロシア西部の、モスクワからラトヴィア、リトアニアへ行く途中のトロペツ群の田舎で、彼はそこの地主の末子として生まれました。父は音楽好きで、母はピアノを弾きました。6才から母にピアノを習い、7才でリストの小品を弾くほどに上達しました。その後チャイコフスキーの師としても知られるゲルケ(Anton-Avgustovich-Gerke・1812-1870)にピアノを学び、目立った進歩を示しました。「展覧会の絵」よりキエフの大門・終結部

chaikovskii
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー・(1840-1893)・ロシア・ピョートルの父はフルートを吹き、友人を集めて合奏したり、オルケストリオン(自動演奏装置)を聴いたりしていました。母も美しい声の持ち主でピアノも弾いていました。1854年6月に母がコレラで亡くなったころから彼は音楽に一層専念するようになり、作曲の試みを始める様になり、即興演奏なども試みております。1891年(51才)、彼はアメリカ、カーネギー・ホールのこけら落しに出演して大成功を博しております。バレエ組曲「くるみ割り人形 2.「特徴ある踊り」から C.「ロシアの踊りトレパーク」

dvorak
アントニーン・レオポルト・ドボルザーク・(1841-1904)・チェコ・宿屋兼肉屋の父フランティシェックの長男として生まれました。1848年のヨーロッパ革命の波はボヘミアにも及んでおりました。そのころ聴いたチェコ民族の物語りや民謡は、彼の音楽に大きな影響を及ぼしております。早くから楽才を表わした彼は、父の店や教会でヴァイオリンを弾いていました。「新世界」より交響曲第9番 第4楽章冒頭部

grieg
エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ・(1843-1907)・ノルウェー・父はスコットランド商人の家系、母ゲシネはドイツでピアノを学び、ベルゲンの音楽生活の立役者の1人でした。グリーグは7歳からピアノ演奏の基礎を母に教わりました。15才の時、ノルウェーの国際的ヴァイオリン奏者0.ブルが グリーグの作曲を聴いて、両親に息子のライプツィヒ留学を 進めました。彼は1858年10月にライプツィヒ音学院に入学、4年間を過ごしております。組曲「ホルベアの時代」Op.40 前奏曲「Allegro vivace」

rimskii
ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー・コルサコフ・(1844-1908)・ロシア・官史の家庭に育ち、6才からピアノを学びました。1856-1862年までペテルブルグの海軍士官学校に在学。その間音楽も続け、グリンカのオペラに親しみ、ピアノ教師カニッレF.A.Kanilleの指導で作曲を始めております。その紹介でパラキレフ,キュイ,ムソルクスキー,スタソフらとの交友が始まり、「5人組み」の一員となりました。「シェヘラザード」より第4楽章・終結部

faure
ガブリエル・ユルバン・フォーレ・(1845-1924)・フランス・スペインに近いアリエージュ県の小都市パミエで、教育家の末子に生まれ、4才のとき父がモンゴージの師範学校長となり、そこの礼拝堂で演奏されるオルガン音楽と合唱とが、幼いフォーレを魅了しました。好んでハルモニウムを弾くようになり、やがて楽才が認められて、1854年秋からパリの古典宗教音楽学校に入学。ニデルメイエールにピアノ・グレゴリオ聖歌・作曲を、ロレにオルガンをディーチュに和声を学びました。 その後サン・サーンスからも教わっています。1896年パリ音楽院の作曲法と対位法の教授となり、やがて彼のもとからラヴェル・ケクラン・フロラン・シュミット・エネスクら数多くの英才が輩出されております。ヴァイオリンソナタ第1番イ長調 作品13第3楽章「アレグロヴィーヴォ」

puccini
ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ・(1858-1924)・イタリア・1父祖代々音楽家で、父ミケーレ(1813-1864)はルッカーで作曲,演奏,教育に活躍しておりました。プッチーニは、幼いころは格別音楽的才能を発揮することもなく、学校の成績もふるわなかつたが、早く父を失った一家ではだれもが彼の音楽家としての成長と成功を期待し、ことに母は熱心に彼の教育のため奔走しました。亡父の弟子アンジェローニ Carlo Angeloni(1834-1901)はじめ、ルッカの音楽家たちの指導を受けるとともに、教会のオルガン奏者としても活躍しました。歌劇「ジャンニ・スキッキ」よりわたしのお父さん

toscanini
カール・ニールセン・(1865-1931)・デンマーク・幼少期にはヴァイオリンに親しみ14歳でオーゼンセ軍楽隊のラッパ手となった。1884年にコペンハーゲンで音楽大学に入学、その後宮廷管弦楽団のヴァイオリン奏者となり、王立劇場楽長や音楽協会指揮者、また母校でも教え校長も務めた。堅実で陽性なデンマーク農民の資質を受け継いだニールセンは、バランスのとれた美しいメロディーの才と生き生きしたリズム感覚を示し、ユーモアセンスをもつ作品で広く国民の間に親しまれた。デンマークを代表する音楽家として国外にも認められ、特に英語国民の間では同年生まれのシベリウスと並ぶ北欧の交響曲作曲家としての評価が高い。交響曲 第5番 作品50 FS.97 第一楽章 Adagio non troppo

toscanini
アルトゥーロ・トスカニーニ・(1867-1957)・イタリア・パルマ音楽院にてチェロと作曲を学び、1885年に卒業後、ブラジル、イタリア等で活発な指揮活動を始めます。スカラ座芸術監督兼主席指揮者を務め、ニューヨークフィルハーモニー管弦楽団、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団など様々な楽団で指揮、1937年には彼の為のNBC交響楽団が創設されました。彼はロマン的な主情性を排した厳格で新鮮な演奏様式を確立したが、必ずしも原典至上主義者ではなく、かなり大幅な管弦楽法の加筆改訂も行ない、また晩年にはロマン的表現も加わったが、造形性の厳しさと明快で美しいカンタービレな表現は始終変わらず、その演奏様式はその後の多くの指揮者たちに影響を与えました。 Berceuse, for piano

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近代・現代Let's Listen!

近代・現代

印象派の音楽や12音音楽などの新しい音楽が生まれました。電子音や生活の中の噪音を用いた音楽なども生まれました。交通や録音技術などの発達により、世界中の音楽が居ながらにして楽しめるようになりました。(参考文献 平凡社 音楽大辞典)

debussy
クロード・アシル・ドビュッシー・(1862-1918)・フランス・代々農業や手工業に従事してきた庶民の家系で、陶器店を営む両親の長子として生まれました。9才の時叔母のきもいりでチェルッティ Jean Ceruttiにピアノの手ほどきを受けました。彼は古いピアノの前で夢想にふける様になりました。そんな彼に興味を持ってレッスンをつけ、両親を説いて彼に音楽の道を歩ませる様に力を尽くしたのは、詩人ヴェルレーヌの義母でショパンの弟子、 モーテ・ド・フルールヴィル夫人Maute-de-Fleurville でありました。彼女のおかげで1872年10月パリ音学院に入学、84年6月までの10年余りをそこの学生として送りました。ヴァイオリンソナタ「Minstrels」前奏曲集第1巻より第12曲

sibelius
ジャン・シベリウス・(1865-1957)・フィンランド・父は軍医であったクリスティアン・グスタフ Christian-Gustaf (1821-1868)母はマリア・シャルロッタ Maria Charlotta (1821-1897)。シベリウスには姉と弟がいました。 彼がわずか2歳8ケ月にしかならない時に、父はみごもった母を残して、チフスにかかって急死しました。 それ以来、一家はハメーンリンナに住む母方の祖母である牧師の未亡人のもとに身を寄せて生活しております。この家に未婚の娘ユリアJuliaがいましたが、ピアノがうまく、シペリウスが5才になった時に、その手ほどきを受けるようになりました。シペリウスは練習曲を好まず、自由な即興を楽しんでいました。フィンランディア 終結部

ravel
ジョゼフ・モーリス・ラベル・(1875-1937)・フランス・スイス国籍を持つ鉄道技師の父ピエール・ジョゼフと、バスク地方の出の母マリー・ドルアールの長男としてスペイン国境に近いシブールに生まれました。生後三か月目に一家はパリに移住しております。好楽家であった父の理解のもとに7才からピアノの学習を始めましたが、最初は他の子供達の多くと同様、 父のほうびに励まされての事でありました。1887年ルネ Charles Rene より和声法の勉強を始め、やがて作曲も始めました。その様な幼少時の試作にあっても、すでに後年のラヴェルの特質である首尾の完全な一貫性と、旋律の独創性を持っていたと、ルネは後に語っています。ボレロ(最終部分)

滝廉太郎
滝廉太郎・(1879-1903)・日本・ 作曲家・ピアノ奏者。1894年(明治27年)高等師範付属音楽学校(のちの東京音楽学校)に入学。幸田延、ケーベルに師事。98年専修科から研究家に進みユンケルに師事。同年の東音秋季音楽会でバッハのイタリア協奏曲を独奏してピアノ奏者としての頭角を表す。また彼は洋楽揺繁期における最初の本格的作曲家であり、洋楽スタイルによる最初の芸術作品である組歌「四季」は近代音楽史上極めて重要な作品。ヨーロッパ古典派または初期ロマン派的なスタイルであるが、日本風な表現を意図してヨナ抜き短音階による「荒城の月」も注目される。荒城の月

bartok
バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ・(1881-1945)・ハンガリー・作曲家・民族音楽学者・ピアノ奏者。20世紀前半における最も優れた音楽家の一人であると同時に、コダーイと共にハンガリー民族音楽の収集と研究に卓越した業績を残しています。農業学校の校長を務める父ベーラと母ヴォイト・パウラの長男に生まれました。父はピアノとチェロを奏し、小曲を作曲し、母親はピアノを弾きました。父の死後、母親からピアノを学び、 9才のころより作曲を始めております。管弦楽の為の協奏曲第5楽章

stravinsky
イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー・(1882-1971)・ロシア→アメリカ・彼の父フョードル Fyodor-Ignat'evich(1843-1902)は、ペテルブルグのマリインスキー劇場に26年も務めた 有名な主役バス歌手。愛書家で絵画の造詣も深かった彼は、衣装や扮装にかけても 当時の第一人者でありました。若いイーゴリはこの様な家庭に育ち、ピアノを学び作曲を試み、またグリンカ,チャイコフスキー,ダルゴムイシスキー,ムソルクスキーらの作品に接することができました。しかし、両親は彼を音楽家にする意思は無くペテルブルク大学に入れて法律を学ばせました。ここで、リムスキー・コルサコフの末息子と知り合い、彼は音楽の道に進む事となります。「春の祭典」より春の兆しと若い娘の踊り

casella
アルフレード・カゼッラ・(1883-1947)・イタリア・幼少から母の手ほどきでピアノを始める。1896年パリ音楽院に入学し、1900年からはフォーレに師事。1908年には作曲家、指揮者として自作の第一交響曲ロ短調をもってデビュー。第2作曲期にはストラビンスキー、第3作曲期にはR.シュトラウスやマーラーの影響を受ける。彼は現代イタリアのすぐれた作曲家であったばかりでなく、評論や著書を通じてまた指揮者、ピアノ奏者として、あるいは3重楽団「Trio Italiano」における演奏活動など多方面にわたる偉大な指導者であった。6つの練習曲 OP.70より「no.1, Sulle Terze Maggiori」

山田耕作
山田耕作・(1886-1965)・日本・作曲家・指揮者。 1904年(明治37年)東京音楽学校に入学、予科から本科声楽科に進み1908年に卒業、研究科に進学。彼の創作活動はヴァーグナーやR.シュトラウスの影響の濃いベルリン時代(1910-1913)の楽劇や交響詩から、1910年代後半の舞踏詩へと進展。1920年代の山田は北原白秋と交わって詩と音楽の理念的融合をはかり、 日本語のアクセントと語感を尊重する芸術的歌曲を創造するが、やがてわらべうたの音階を利用した童謡を繰り返し作曲するようになる。 その後1920年代末から1930年代にかけて「序景」「あやめ」を過渡的作品とした舞踏詩と歌曲からオペラへと進む。また、滝廉太郎の「荒城の月」 を彼の没後の1917年にオリジナルのロ短調から短3度上のニ短調に移調し、旋律にある臨時記号を外した。ジプシー音階の特徴を無くし、より日本的な旋律にするためだった。 この道

Prokof'ev
セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ・(1891-1953)・ソ連・ピアノ奏者・指揮者。農学者の家に生まれ、ピアノ奏者・教育者の母により幼時から音楽及び仕事に対する組織性と責任感を厳しく教えられました。5歳半でピアノ曲<インドのギャロップ>を、9歳でオペラ<巨人>を作曲しております。1902年モスクワでS.タネーエフに才能を認められ、その勧めでグリエールらに指導を受け、翌年にかけて第1交響曲、オペラ <ペスト流行期の酒宴>、他にピアノ小曲多数を作曲して並みはずれた成熟を示しております。ピーターと狼

grofe
ファーディ・グローフェ・(1892-1972)・アメリカ・ピアノとヴァイオリンを母に、ヴィオラを祖父に学ぶ。20才でロスアンジェルス交響楽団のヴィオラ奏者になりますが、1919年ホワイトマンに会い、その楽団で13年間編曲者、ピアノ奏者を務めます。24年ガーシュインの <ラプソディー・イン・ブルー>のオーケストレーションを受け持ちました。彼の編曲法の特徴は、サクソフォーン群や細分された弦楽器群で奏される減7や減9の和音の跳躍の少ない連続が作り出す甘い感性にあり、当時「シンフォニック・ジャズ」としてもてはやされました。31年の <グランド・キャニオン組曲 Grand CanyonSuite>で作曲家として成功。その作風はきわめて描写的。ミシシッピ組曲からハックルベリー・フィン

gershwin
ジョージ・ガーシュウィン・(1898-1937)・アメリカ・ブルックリンの移民地区にロシア系ユダヤ人の息子として生まれました。10才の時、級友の弾くドヴォルジャークの ヴァイオリン曲<ユモレスク>に感動したのを契機として、音楽が彼の全生活を占めるようになり、ピアノと和声法を学びました。R.ゴールドマン,カウエル,シリンガーらに教えを受けております。ラプソディ・イン・ブルー

khachaturyan
アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン・(1903-1978)・ソ連・彼は製本工の子として生まれました。商業学校在学中、南カフカスの民族音楽に親しみました。1921年モスクワに行き、モスクワ大学理工学部に在学ののち音楽的才能が認められ、グネーシン音楽学校に入学。チェロを学び、次いでゲネーシンの作曲クラスに入りました。組曲「スパルタクス」より第3番/第3曲「エジプトの乙女の踊り」

shostakovich
ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ・(1906-1975)・ソ連・ポーランドの独立運動(1831年)に参加してウラルに流刑にされたポーランド人の血を引く父と、シベリア金山の監督官の娘である母との間に生まれた一人息子で、姉マリヤ(ピアノ奏者)と妹ゾーヤ(科学者)がいました。父ドミトリー・ボレスラヴォヴィチはペテルブルグ大学理学部卒、メンデレーエフの度量衡管理局の上級検査官であったが、美声の持主で自分でもよく歌う音楽愛好家であった。母ソフィアはペテルブルグ音楽院卒の本格的なピアノ奏者で、彼に音楽の手ほどきをした。ショスタコヴィチは、ビューローに学んだこともあるというポーランド人グリャッセル I.A.Gliasserの音楽教室で学んだ後、グラズノフの個人的な勧めもあって、1919年ペトログラード音楽院に入学、ピアノを母の師でもあるロザノヴァ A.A.Rozanovaとニコラエフに、作曲をシテインベルクに師事した。「革命」交響曲・第5番第4楽章/冒頭部

barber
サミュエル・バーバー・(1910-1981)・アメリカ・彼の作風は古典的な形式や書法を用い、甘美なメロディと彼自身の生命力に満ちた表現を用いる。1936年ローマ在学中に書いた<一楽章の交響曲>はしばしば演奏される。1937年の<弦楽のためのアダージオ><管弦楽のための第1エッセー>は1938年トスカニーニによって初演された彼の初期の代表作。1942年にヴァイオリン協奏曲、1944年には空軍に委嘱されて交響曲第2番を書いた。この曲では無線誘導ビームの音をオスティナートで扱ったり飛行機の爆音の擬音効果を入れたりしている。弦楽のためのアダージョ

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